コントラスト・ララバイ
このたび、クスタさんのすてきなイラストをお借りして小説を書かせていただきました。大人になったイワンのお話です。
クスタさん ありがとうございました!
コントラスト・ララバイ
どちらが現実なのかわからなくなるよ。
ハインリヒが、いい店を見つけたとコーヒー豆を買ってきた。鼻歌を歌いながらキッチンへ向かい、飲みたいやつはいるか、と呼びかける。さっと手を上げたのが四人、あまったらもらえるか、と言ったのが一人。
ぼくも、と言うと、ハインリヒは目を見開いて、それから笑った。
「大きくなったらな」
腹が減ったなら待ってろ、と湯を沸かす。フランソワーズもキッチンへ入り、哺乳瓶とミルクを準備する。グレートがニヤニヤとぼくの顔を覗きこみ、なかなかいいジョークだ、とほおをつつく。
――ああ、そうか。そうだったね。
ジョーが食器棚から人数分のカップとソーサーを取り出す。上階から博士がのんびりと降りてくる。散らかったテーブルをジェロニモがテキパキと片付ける。みんなの口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。
ちぇっ。
輪に入れないぼくはごろりと寝そべって天井を見つめる。ナチュラルウッドの手すりに四角く縁取られたそれは、現実よりもすこしだけ近い。手を頭のうしろで組みたいのにうまくいかなくって、ますますおもしろくない。
腕が短いんだ。腕だけじゃない、体が小さい。一歳にもならないぼくの体。みんなと過ごした時間、ぼくの体は小さかった。
淹れたてのコーヒーのにおいが鼻をくすぐる。けっきょくだれのぶんだろう、ハインリヒとフランソワーズとジェットと博士と‥‥いやちがう。ぼくだ。ぼくがぼくのぶんを淹れたんだった。
そう気づくと同時、カーテンに頭をたたかれる。屋敷がめいっぱいに吸いこんだ空気を、まとめてこの窓から吐き出すものだから、カーテンはバサバサと屋外に飛び出して、早く起きろ、怠けるんじゃないとばかりにぼくを急かす。
まったく、もう。いいじゃないか、この広い屋敷を一人で掃除してるんだぞ。すこしくらい休ませてくれよ。
仕方なしに立ち上がると床板がきしんだ。適宜手入れはしているけれどなにしろ古い。海に面したウッドテラス、年中潮風に吹かれては劣化も早い、それをここまで保たせたんだ、もうじゅうぶんだろう。いいかげんまるごと作り直したほうがいいのかもしれない‥‥いや、いっそ取り壊してしまおうか。ぼく一人に、こんなに広いテラスはいらない。
最近知ったのだけど、どうも幽霊屋敷だと噂になっているらしい。大きな屋敷なのに人の気配がないし、そのくせときどき明かりがついたり、人影が揺れたり――町から離れているけれど、崖の上に建っているから遠くからでも目立つみたいだ。
幽霊の正体はもちろんぼく。外の人と付き合うのは面倒だから極力出かけないようにしているし、そもそも月の半分は寝続けている、存在感は皆無に等しいだろう。その上、古い屋敷なのに所有者も由来もよくわからない。噂もなるほど、うなずける。
そんな幽霊屋敷を魅力的と見る人もいて、ときおり近くの町の子どもたちや、噂を聞きつけた物好きたちが探検に来る。ドアなら鍵をかけられるけれど、テラスはそう簡単にいかない。ロケーションも最高、眼前に広がる大海原に感動して大はしゃぎする侵入者は多い、まったく迷惑している――で済めばいいけど、なにかの拍子に壊れてけがでもされたらかなわない。実際、若者グループが海を背景に写真を撮ろうと手すりに腰掛けて、ひやりとしたことがある。ぼくがたまたま見ていたからよかったんだ、じゃなけりゃ手すりごと崖下に落下していた。だれかがけがをするまえに、今度こそ取り壊そう。
今度こそ。
伸びをする。いい天気だ。ひんやりした風の音、深呼吸みたいな波の音。カモメが鳴くほうを見やって、きらめく海に思わず目を細める。青い空を、ふわふわした白い雲が気持ちよさそうに泳いでいく。
と、またカーテンが騒ぐ。わかっているよ。
意識を傾ける。マグカップにコーヒーを注ぎ、砂糖とミルクを混ぜる。カップはキッチンを飛び出し、リビングを抜け、風に揺れるカーテンの隙間をくぐって、ぼくの手元に着陸する。
静かな黒い液体。冷めているのはミルクを入れたせいだけじゃない。キッチンにある、たった一人ぶんのコーヒーの香りが外にまで届くくらいの時間をほっといたんだもの、そりゃあ冷めるさ。おかげで砂糖は溶けきらず、いくらスプーンでかき混ぜても、マグの底にざらざらと残る。レンジで温め直そうか、いや面倒くさいな、でもなあ、なんて、飲みながら考える。
背後でバフンとカーテンの咳払い。そう怒るなよ、これを飲んだら再開するさ。
これでどうだろう、と博士が広げた図面を、みんなで見ていた。六人はコーヒーを、二人は紅茶を、一人はコーラを飲みながら、和やかに会議は進む。ぼくもミルクを飲みながら、なんとなくそこにいた。
ぼくはどうせ、そんなに利用しないよ。赤ん坊だもの。
「なにすねてんだよ」
ジェットが茶化すような口調で、それでいて低く優しい声で、ぼくに笑いかけてきた。長い前髪に隠れた瞳にはわずかな不安が見える。すねてなんか。目をそらすと、大きな手でぼくの頭を捕まえて、ぐりぐりとなでた。
「テーブルがほしいね。天気のいい日に宴会でもしたらきっと楽しいよ」
「しかし全員座るとなると場所をとるなあ」
「折りたたみにしたらよろしい! スイッチポンで出し入れできる電動式のテーブルね。博士、どうね?」
「もちろん、できるとも」
張々湖が飛び跳ねて喜ぶ。喜怒哀楽をいつだって素直に全身で表現する張々湖を見ていると、なんだか安心する。彼を嫌う人なんかいないもの。
「ほかにはなにかあるかな」
博士が尋ね、みんながいっせいに考え始める。いや、三人は考えているふりをしている。言うことがないんだ。なんでもいいというわけじゃなくて、これで満足している。ピュンマもまず、これ自体にはなにも言うことはないんだけど、と断りを入れた。
「海へ直接出られる道がほしいなあ。せっかく目の前なのに、毎度遠回りをしなくちゃならないんだもの」
ああ、とみんながうなずく。たしかにね。屋敷は切り立った崖の上だ、みんなは歩くしかないから不便だろう。ぼくは念力でひとっ飛びだし、なんなら瞬間移動もできるけれど。
そいつはいいな、じゃあこういうのはどうだい、とだれかが言った。
この豆、いつ、どこで買ったんだっけ? コーヒーかすを片付けながら記憶をたどる。思い出せない、ずいぶん昔から棚にあったような気がする。飲んでしまったけれど平気だろうか、変な味はしなかったけれど――おかしいな、さっき飲んだばかりなのに味を思い出せない。どんな味だったっけ?
ハインリヒが見つけたコーヒー店は、あれからわりとすぐに閉店してしまった。しばらく落ちこんでいたけれど、ほかの店を探すと言ってあちこち出かけるようになった。
それを聞いたジェットが、アメリカではやりの店だと、お土産に買ってきたことがある。ジョーや博士はおいしいと言っていたけれど、ハインリヒはお気に召さなかったようで、最初の一回しか飲まなかった。それだけならいいんだけど、よせばいいのに「こんなのがはやるなんて」とか言うものだから、大げんかになってしまった。あとで謝っていたけれど。
「はは」
思い出し笑い。すこし響いて、壁に吸いこまれていく。あるいは開けっぱなしの窓から、くしゃみといっしょに飛んでいく。そろそろ戸締まりしようか、換気はじゅうぶんだろう。コーヒーの香りもすっかり消えた――はたと手を止める。
どんな香りだっけ?
室内は潮のにおいに満ちている。今ここにあるコーヒーかすも、マグを洗うのに使った洗剤も、長年の暮らしがしみこんだ壁紙の黄ばみも、今は潮のそれに隠されてしまった。
なんだよ、寂しいじゃないか、どこへ行ったのさ。室内を見渡す。バサバサとひるがえるカーテン、差しこむ光を橙色に色づけて跳ね返すフローリング、沈黙する大きなテーブル、そっぽ向く椅子たち、長らく留守の小さな花瓶、ジャージャーと水を吐く蛇口に、ぽろぽろと逃げていくコーヒーかす。
いけない。詰まってしまう。
ぼんやりした頭を揺さぶり起こす。こぼれたかすを拾い集め、生ゴミ用の紙袋にまとめる。水分がじわりと茶色くにじんだ。
捨ててこなくちゃ。
テラスへ出てから屋敷中の窓を閉める。暴れ疲れておとなしくなったカーテンに見送られ、海へと続く道を降りていく。
ウッドテラスは一眠りしているあいだに完成していた。一見素朴な白木造り、ボタン一つで巨大なテーブルやバーベキューグリルを出し入れでき、緊急時には屋敷を守る強固な盾にもなる、ギルモア邸らしいテラスだ。
これだけの設備を半月足らずでなんてずいぶん早い。そりゃあ体力も技術もありあまっている九人だけれど。
ぼくもすこしくらい参加したかったな、と言ったら、まだ大事な仕事があるわ、とフランソワーズが言った。
「海へ降りる道はこれからなの。それに使う木をジェロニモが選んでくれて、みんなで切り出したんだけど」
「その木を運べばいいの?」
「ちがうちがう、それももう終わったんだけど――ちょっとおいでなさいな」
飲み終わった哺乳瓶をテーブルに置き、ぼくを抱き上げて、フランソワーズがテラスから外へ出る。早朝、重たい濃紺の空の東に、赤紫で引いた水平線の光がにじんでいる。冷たい風に吹かれて、ぼくたちはそろって身震いした。
こんな早くに起こしてしまって申し訳ないなあ。十人もいると生活時間帯はすこしずつちがうものだけど、ぼくはあまりにもイレギュラーだ。だけどフランソワーズは心底から気にしていないらしい、朝焼けがきれいだな、と見とれている。
テラスを降りるとたしかに丸太が積まれていた。ちょっと触れたら崩れてしまいそうに見えるのに、うまくまとめてある。それから、ここを舗装していくんだろうな、細い斜面にも所狭しと転がっている。
それらを横目に通り過ぎて林へ入る。息を潜める黒い木々、朝日を待って頭を垂れる花々、つんと緑のにおいが混じる朝もや。フランソワーズの温かい鼓動と、土を踏みしめる柔らかい音が、そっと、どこまでも響いていく。
「ほら」
彼女が見せてくれたのは切り株だった。よく見るとあちこちにある。さっきの丸太たちの根元だろう。
「これがどうかしたの?」
「ここにまた木が育つように、種をまいてほしいの」
「種?」
ふふ、とほほえんで、なにやら妙にボコボコした素材の紙袋を取り出す。土に埋めると木が生えるんですって、と言う。生分解性が高く土に還りやすい紙に、木の種を混ぜこんであるんだそうだ。
茶色いシミ。コーヒーかすが入っているようだ。
「予定よりたくさん木を使ったから、そのぶん育てておかないと」
「種を植えて、木が育つのを見守ればいいってわけ?」
「そうね‥‥」
うふふ、とフランソワーズが寂しそうに揺れた。
あのとき植えた種は今、立派な大木になっている。ガサガサとした幹に手のひらで触れるとじんわり温かくて、久しく忘れていたぬくもりを思い出す。
林はちょっと小さくなった。高速道路を造るために収用されて、屋敷から見る山の景観はすっかり変わってしまった。人の行き来も増えた。そんなだから侵入者もあとを絶たない。私有地につき立ち入り禁止と看板は立てているけれど、落書きされたりゴミを置かれたり、散々だ。そうじゃなくても林の管理は面倒なのに。
木をただ育てるだけでは林はだめになってしまう。枝打ちをしたり、弱い木や枯れた木を取り除いたりしなくてはいけない。ぼくには超能力があるから難しいことではないけれど、面倒くさい。間伐材の処理も困る。ちょっと眠っているあいだにすくすく育つんだ、まったく手がかかるったらない。
いっそ土地収用のときにぜんぶ取り上げてくれたら楽だったのに。そうしたら、‥‥そうしたら。
木を抱きしめる。葉がこすれる音。水を吸い上げる声。根元にはこけがむしている。きれいだなあ。
「あっ、こんにちは!」
「あ‥‥うん、こんにちは」
元気な声に振り返ると、町の子どもたちが数人、虫取り網を持って立っていた。この子たちはしょっちゅう来るからすっかり顔見知りだ。立ち入り禁止なんだけど、どうしても強く言えない。幽霊屋敷の噂を教えてくれたのも彼らだ。
「なにか捕れたかい」
「ううん」
「そう。まだちょっと寒いからね」
危ないことはしちゃだめだよ、と言い残し、ぼくはもうすこし奥へと進んだ。このゴミを埋める場所を決めなくては。
するとどうしたわけか、子どもたちがついてくる。
「虫取りはいいの?」
「だって、まだちょっと寒いもの、いないよ」
さっきのぼくのせりふを繰り返して、少年が笑う。いやだなあ。彼の、どこかジョーを思わせる面差しに、ぼくはついほだされてしまう。ジョーではないのに。
仲良くなるつもりはない。彼らに背を向け、早足で進む。しかし元気なものだ、キャッキャと楽しそうに、駆け足でついてくる。
まったく、もう。
ため息を一つ。まけそうにないし疲れた、ここらでいいか。日当たりのよさそうなところを選び、しゃがみこんで穴を掘る。紙袋を埋めると、少女がとがめるような口ぶりで言った。
「ゴミを埋めたらいけないんだよ」
「これは木の種なんだよ。だからいいんだ」
「そうなの?」
目を丸くして、へえ、と感嘆の声。この少女の声も、なんだか懐かしい。
よく言えば親しげに、悪く言えば無遠慮に背中にもたれかかる少年の体重も、ぼくの一挙手一投足を興味深そうに見つめてる一同のまなざしも、賑やかだったあのころを彷彿とさせる。
人付き合いは面倒なくせに、どうしてうれしくなってしまうんだろう。
崖の削岩作業をしていた張々湖が、貫通したよと顔を出す。
「海まで一直線ね」
「サンキュー!」
ひゅう、と口笛を吹いたのはジェットだ。子どもみたいに目をきらきらさせて、張々湖が出てきたのと入れ替わりでトンネルに飛びこむ。目測を誤ったか、頭をぶつけて、ゴンと鈍い音がした。
「いってー!」
大丈夫そうだ。とたん、みんながいっせいに笑い出す。そりゃそうだ、ちょっとぶつけたくらい、ぼくたちにはなんてことはない。それより彼のはしゃぎよう、痛がりようが本当にかわいらしくて、おかしかった。
言うほど痛いはずがないんだ。ぶつけたから痛いような気がするだけで。
「もうすこし広げるか?」
張々湖が尋ねて、ジェットは中腰のままその長い手足を伸ばし、高さや幅を測る。長身の彼がまっすぐ立つには高さが足りない。けれどジェットはグッと親指を立て、ニコッとうなずいた。
「いいんじゃないか。でも念のため、ジェロニモも入ってみてくれよ」
応えてジェロニモも穴に入る。ジェットよりさらに頭一つぶん、横には一人ぶん大きな彼だ。ひざを抱え、じっと座るだけなら高さ幅とも余裕はあるが、満足に動けはしない。だのにみんなうなずいて、じゃあ次だ、と細い丸太で作った杭を運び入れる。階段を作るのだろう、ジェロニモと交代でジョーとピュンマが入り、丁寧に測量して、削岩機で杭を打ちこむための穴を開ける。トンネルはなかなかの急勾配で、滑り落ちないように気をつけろよ、なんて声を掛け合う。
懐かしいな。
叶うならずっとこの時代にいたい。ううん、今のぼくのまま、この時代に、ことのきのみんなに会えたら――ぼくったらまじめなんだな、夢のなかでくらい、思うようにしたらいいのに。大人の姿になって、いっしょに木材を運んだり杭を打ったりしたらいいのに。
いや、わかっている、わからないんだ。みんなの知るぼくは、最後までずっと赤ちゃんだった。大人になったぼくを見てみんながどんな顔をするのか、ぼくには想像できないんだ。
「どうしたね、うつむいて。もう眠いか?」
張々湖の顔がぬっと迫ってきた。思わず笑ってしまった、懸命の作業のためか、大きな鼻がすこしすすけている。あいにくハンカチは持っていない、よだれかけを貸そうかと言ったら大笑いされてしまった。
ふふ、まだ大丈夫さ、ちょっと考え事をしていただけだよ。それにしても。
「どうしてわざわざトンネルなんか作るのさ」
そんなことをしなくても、邪魔な木をちょっと伐採して整地するだけで、今までよりアクセスのいい道は作れるはずだ。崖を削るにしても穴を掘るんじゃなくて階段にすればいい。こんな傾斜のついた階段じゃ上るのに疲れてしまうよ――そりゃあぼくには関係ない話だし、きみたちだってサイボーグだ、これくらいへっちゃらなんだろうけれど。
するとグレートが笑う。
「このトンネルは出発専用さね。階段は別に作るとも」
「出発専用?」
どういうこと? 答えを聞くまえにハインリヒに呼ばれて、ぼくらはテラスへ戻った。コーヒーを淹れたから休憩にしよう、とさ。
用を済ませたから戻っただけなのに、まるで彼らを招いたみたいになってしまった。テラスに上がると、子どもたちは我が物顔でくつろぎ始め、なぜだか持ってきたらしい折り紙で遊び始める。虫取りしに来たんじゃないの? どうして折り紙を? 子どもの考えることはわからない。かまわないけど。
「あちこち壊れかかってるから気をつけてね。特に、手すりにはもたれないこと」
「はあい」
「よし。‥‥なにか飲むかい?」
なんとなく訊かなきゃいけない気がして尋ねると、子どもたちは遠慮なしに注文する。オレンジジュースだの、牛乳だの、クリームソーダだの。そんなにいろいろはないよ、うちにはぼくしかいないのに。牛乳くらいだな、リクエストにお応えできるのは。ほかには、コーヒーか、紅茶か。
ほとんどの子はあからさまにがっかりした。けれどジョーに似た少年が、それならさ、と声を弾ませる。
「コーヒー牛乳がいいなあ」
ああ、なるほど。それならできる。
ほかの子たちもそれがいいと言い出して、ただの牛乳が二人、あとの七人はコーヒー牛乳になった。牛乳足りるかな。
湯を沸かす。豆を挽かなくちゃ。棚からさっきしまったばかりのミルを、冷蔵庫からはコーヒー豆を取り出す。そうだ、賞味期限は? ――大丈夫、ずいぶん先だ。
ハンドルを回す。ゴリゴリと小気味のいい音と、コーヒー豆の芳しい香りが広がる。音につられてか、数人が室内へ上がりこんできた。まるで新しいおもちゃを見つけたかのような、きらきらした目でミルを見つめる。
くすぐったいなあ。
「やってみる?」
「やる!」
「オーケー。じゃ、まず手を洗って」
ワッとはしゃいで列をなし、われ先にとシンクに手を伸ばす。シャボンがふわふわと舞う。そのひとつひとつに子どもたちの顔が映り、笑い声といっしょにはじける。
ミルのハンドルももちろん奪い合いになった。最初に順番と回す回数を決めたのに、やれ一回多いだの、乱暴だだの、友だち同士だろうにどうしてけんかをするんだろう。
わかっているさ、友だちだからけんかをするんだ、きみたちのばあいは。
ドリッパーにペーパーフィルターを装着。挽いた豆を入れ、湯をすこし注いで蒸らす。じゅうぶん膨らんだら湯を一気に注ぎ入れる――ハインリヒがよくやったように。でも、彼の淹れたコーヒーを飲むことは叶わなかったなあ。どんな味だったんだろうか。
カップに分けて、砂糖を溶かし、冷たい牛乳で割って。子どもたちはカップを受け取ると、こぼさないように慎重に運んで、椅子にかけた。どうやら口に合ったらしい、満面の笑みを浮かべて一気に飲み干す。残念だけどおかわりはないよ。
みんなが満足してカップを置いたとき、一番幼い少年がふしぎそうにつぶやいた。
「どうしてこんなにたくさんカップがあるの?」
とたん、静まりかえった。
一人暮らしなのに。お屋敷も広すぎるし、椅子だってたくさんある。お客さんだって、ぼくらのほかにはだれも来ないじゃない、と。
そんなこと言われても、屋敷を建てたのも、テラスを作ったのも、ぼくじゃない。コーヒーメーカーやカップをそろえたのだってそうだ。本当の持ち主は、ここにいたはずのみんなは、夢のなかでは今でも笑っているみんなは、もう、いなくなってしまった。
そうだね、どうしてこんなにたくさんあるんだろう。本当はもういらないんだ。だけど捨てられないんだ。どうしても。
心臓がキュッと鳴く。悟られたくなくてカップを口に運ぶ。黒と白はくるくると渦を巻き、たちまちのうちに混じり合って、味のしないコーヒーが眠気を覚ます。
どちらが夢なのかわからなくなるよ。
ジャジャーン、とファンファーレを合唱しながら見せてくれたのは、長い長い滑り台だった。
「ここがスタート。木々のアーチをくぐって、トンネルに入る。抜けたら海さ!」
よく晴れた初夏の昼下がり。ウッドテラスの脇にしつらえた木製の台を指さして、ジェットが身振り手振りで興奮気味に解説する。滑り台だって? 子どもじゃあるまいに、なにをそんなにはしゃいでいるのさ。
でもジェットだけじゃなかった。フランソワーズも、ハインリヒも、ジェロニモも、張々湖も、グレートも、ピュンマも、ジョーも、それからギルモア博士まで、今にも踊り出しそうにウキウキそわそわしている。みんないい年して、滑り台がそんなにうれしいかい?
「きみはうれしくないの、イワン?」
ジョーが眉尻を下げる。寂しげなそぶりをするけれど、しかし瞳には確信が映る。ぼくが喜ぶと信じて疑わない。
「‥‥こんなもの作って、どうせ遊ぶのなんて数年じゃないか」
「きみは遊ぶだろう?」
「一人で滑ろって? そんな寂しいこと、ないよ」
「おいおいイワン、おまえさん、友だちの一人も作らないつもりかい? そのほうがよっぽど寂しいよ」
ハインリヒが言う。呆れているような、すこし笑っているような、ちょっとおどけたような声。それにうなずいて、フランソワーズがぼくの手を取った。
「いつかあなたに友だちができたら、ご招待なさいな。そのときにあなたとあなたの友だちが楽しめるように、わたしたち、じゅうぶんな支度をしておくわ」
――そんな言いかた、しないでよ。
叶うなら、ぼくがいつか大きくなったときにも、みんなにいてほしい。新しい友だちなんかいらない。世界が必要とする限りぼくらは戦い続けなくてはならないというのなら、都合がいい、平和すら二の次だ。
ぼくはきみたちと戦いたいんだよ。遊びたいんだよ。世話を焼かれる子どもじゃなくって、大人同士の仲間として、友だちとして。ミルクじゃなくって、みんなと同じコーヒーを飲みたいんだよ。
そんなこと言ったって、どうしようもないんだけど。
フランソワーズの手をぎゅっと握る。彼女はにこりとほほえんで、ぼくのほおをなでた。思わずハッとする。まえとはちがう、憂いのない笑顔。
そして、藪から棒。
「それで、だれがいい?」
ひゅっとカモメの影がよぎる。ぼくは二度、三度まばたきをして、オウム返しに尋ねた。
「だれ、って?」
「だれが最初にきみと滑るかを話し合ったんだけど、決まらなくてね」
ピュンマが口を挟む。だれが、最初に、ぼくと? 思わず目を見開くぼくに、博士が付け足す。
「おまえさんは赤ん坊だし、出口は海だ。だからだれかが抱っこで付き添うべき、で意見は一致したんだが、じゃあだれがとなると‥‥」
「全員、譲れないってわけ」
グレートが肩をすくめる。隣ではジェロニモが真顔でうなずいている。すこしは笑ってほしい。
呆れてしまう。そんなのだれだっていいだろう。順に一人ずつ滑ったっていい。時間ならたくさんあるんだ。だのに、そういうことじゃない、とみんなして首を振る。
「イワンの最初の一回よ。特別な名誉、だれだってあずかりたいね」
名誉って。
みんなのきらきらしたまなざしがぼくに向けられる。やめてよ、くすぐったい。
「‥‥だれか一人をなんて決められないよ。じゃんけんでもなんでもしたらいい」
「だよな! じゃあ――」
せーの、で始まるじゃんけん大会。いい年した大人たちが子どもみたいにキャーキャーはしゃいで、勝ったの負けたの、一喜一憂する。ぼくの最初の一回が、そんなにうれしいかい?
まったく、もう。
やっぱり作り直そう。育てた木を使って、もう一度。そしてまた木を植えるんだ。
ほかの子たちが不安そうにぼくを見ている。よくない質問だと思ったんだろう。質問者を小声でとがめる子もいるが、本人はきょとんと首をかしげている。ふふふ、心配しないで。答えは持っている。
「きみたちを迎えるためさ」
カーテンがふわりと膨らんだ。夏はもうすぐだ。
了